臓器移植法案について


 臓器移植法に関する私の考えを述べたいと思います。

日本人の死生観について

 日本人にとっての死とはなんだろうか。

 例えば西洋人にとってそうであるように、死とは個人的なものだろうか。西洋人にとっての死とは、一人で対峙するものであり、神と対峙し、そしてその生涯を量られる、そういうものではないだろうか。西洋人にとっては、人生そのものが神との契約の中にあり、他人がそこに介在する余地はない。これは、西洋に限った話ではない。あらゆる一神教の社会においてそのような傾向はある。

 翻って、日本人の死について考える。

 死について考えるためには、日常について考える必要がある。われわれは、日常のあらゆる判断において、世間という存在を無視することはできない。これは良い意味でも悪い意味でもない。ただ、そうであるというだけだ。村落共同体という日本人に長い期間にわたって根を下ろしてきた生活が、そのような思想をもたらしたのか、日本人が持っていた思想に村落共同体という生活様式が適合したのか、それはよくわからないが、そういった生活の在り方と我々の考え方(現在に至るまでの我々)とは、分かちがたく結びついている。

 そして、死について考えてみる。

 死とは何か。西洋人ならば、自分の問題であり、また自分と神の問題であるというだろう。 しかし、日本人にとってはどうか。日本人にとっての死は、皆が判断することではないだろうか。西洋的な合理的思考に慣れてしまった人々には、あまりに曖昧で無責任に感じられるかもしれない。しかし、その合理的思考がもたらす害悪の大きさもわれわれは知っている。ある個人の死であっても、西洋のそれとは違い、日本においては、村落共同体の全体の死である。そして死んだ後ですら、その個人の死は村落共同体から切り離されない。死をどこかの物差しを使って機械的に決定することはできない。曖昧な判断には曖昧なりの理屈がある。これこそ日本人の知恵である。

 日本語の「ひと」の語源をご存じでしょうか。「ひ」は空間、「と」は時間、つまり時空と人間とは一体という哲学をことばにして内在させ、日々使うようにご先祖様は日本人に織りこんできたのである。自然とも一体、宇宙とも一体、「ひと」はひとりではない。互いにいつくしみあい、平等に暮らしてゆく。日本社会を3000年間持続可能ならしめたこの生き様こそ、私たちの本質である。 従って、死の判定者は、お医者様だけではない。死の判定は、家族、大家族、村落共同体が共同して行うものである。

 私はD案こそ新しい臓器移植法にふさわしいと考えていました。臓器移植を促進する方法は他にも模索しつつも、まだ日本人の死生観をかえる段階にはなく、脳死をあまねく人の死とするための必要十分条件はそろっていない。 死をうけいれるには、十分な時間といやしが必要されている以上、心臓停止をもって人の死とする今の考え方から踏み出すわけにはいかない。 ただ、臓器提供を待っていらっしゃる何万人もの患者・家族のお気持ちに応えるためにも、症例を増やす努力、バンク登録者数を増やす努力は、今後も続けていきたいと思う。

D案の理念

D案への賛成の理由

 臓器移植を待ち望む多くの待機患者の方々の切なる思いにこたえつつ、臓器移植に慎重な方々の心情にも十分配慮することが必要であると考えます。
国内にいらっしゃる臓器移植を希望する多くの待機患者、特に十五歳未満の方が国内で臓器移植を受ける道は著しく制限されており、このような方々の願いに応え、国際的動向にも配慮し、臓器移植を推進しなければなりません。

 そして、現行の臓器移植法は、脳死を人の死と認め、臓器の提供をしたいという方と受けたいと願う方の自己決定と相互の意思を尊重し、その範囲ならば脳死を人の死と認めない方々であっても受け入れることが可能であるという考え方に立つことで成立したものです。

 臓器移植法の制定から十年余り、いまだなお、脳死を人の死とする社会的同意はえられていないと思います。確かに、脳死は、医学的に観れば厳然たる死です。しかし、心臓は動いている、身体は温かい、まだ、死んでいると言い切れるものではないです。割り切れない思いを持つことも自然な感情です。脳死に対する考え方は、人生観、死生観、宗教観などと切り離して考えることはできません。

D案の理念

 脳死が人の死かということについては、現行法の枠組みを維持し、十五歳以上の方についての臓器移植は現行法どおりとします。自己決定と相互意思の尊重という基本原則を維持する考え方です。

 臓器移植の推進は、自動車運転免許証や健康保険の保険証に臓器提供の意思表明の欄を設けるなどの施策を充実することによって、意思表示を行いやすくします。

 十五歳未満の者については、意思を表示する力という点に問題があり、親と子の絆や、親は子の人格形成に責任と義務を持っていることを考慮し、脳死は人の死であることを受容できる親が、子供の気持ちを忖度し、承諾する場合に、臓器提供を可能とします。~ さらに、十五歳未満の者の臓器提供については、より慎重を期すため、児童虐待のおそれがないことや、親に適切な説明がなされることという条件に加え、これを医療機関の倫理委員会が確認することとしています。

 四つの案にはそれぞれ違いがありますが、D案とA案との論点を明確にすることが重要と考えます。~ A案とD案とでは、背景となる理念・哲学が異なります。最大の違いは、脳死を人の死に対する考え方と、本人の意思が不明の場合の臓器提供の考え方です。

 第一に、A案は、脳死を人の死とすることについて社会的合意があるという前提に立って、脳死を人の死とする規定を置いています。一方、D案は、脳死を人の死とする社会的合意は今なを得られておらず、法律で価値観を押しつけないこととしております。仮に法律上の定義を置くこととなれば、医療現場だけでなく、社会的にも様々な影響が懸念されます。

 第二に、十五歳以上の者の臓器移植については、本人の意思が明らかである場合には、A案でもD案でも同じです。
 異なるのは、本人の意思が不明な場合であります。現行法でもD案でも、本人がどう考えていたのか分からない場合は、臓器提供はできません。A案では、本人の意思が不明な場合でも、家族が承諾さえすれば臓器提供できるとしております。これは、本人の意思を尊重する現行臓器移植法の立法の精神を百八十度転換するものであります。

 A案の課題は、臓器を提供する患者のリビイングウィルを妨げるおそれがあること、家庭内暴力の場合や、臓器提供後、本人の拒否の意思表示カードが出てきた場合にどうするかなどが、考えられます。

 また、子どもの脳死判定について、考え方を申し上げます。
 D案においては、脳死を人の死と法律上位置付けておりません。医学的に脳死と考えられる子供について、脳死を人の死として受け入れられる親の崇高な気持ちを尊重し、法的脳死判定に入ることとしています。その際には、子供の心情を慮ることにより、その後の親の様々な心理的負担を和らげるように配慮しております。

 最後になりますが、国会での議論を通じ、意見が分かれるのは、欧米の考え方をグローバルスタンダードとみなすのか、日本には固有の文化的特質があると考えるのか、その点についての考え方の違いが背景にあると思われます。このような違いに深く思いをいたし、臓器移植をいかに推進するかについて、静かに、冷静に判断することが必要であると考えます。

 臓器移植は、個人の人生観、死生観、宗教観に深く関わるものであり、大多数の国民が納得する形で、社会的合意を得ながら、一歩一歩着実に進めるべきであると考えます。

野田佳彦君によるD案への賛成討論

いろいろ悩んだあげく、登壇することとなりました野田佳彦です。

 私は、いわゆるA案、B案、C案、その問題点を指摘しつつ、D案に賛成の立場で討論いたします。(拍手)

 第百六十八国会以降、A案、B案、C案の各案が提出されました。それぞれ一長一短あり、どれを選択するか、大変悩ましい限りでした。

 それぞれ傾聴に値する御提案ですが、B案は、十二歳未満の脳死下での臓器提供を認めないことにより、実質的に、小児で臓器提供を求める多くの患者の救いにはなりません。

 また、C案は、よって立つ哲学は明確ですが、臓器提供の機会の促進には結びつきません。

 A案の主張は、ある意味で明快。WHO指針に準じる国際基準にすることで、臓器提供数の大幅な増加を目指し、現行十五歳以上の年齢制限も撤廃する内容です。私は、三案の中では、情緒的にはA案を支持する立場でした。しかしながら、A案が前提とする、脳死は人の死は、本当に社会的に受容されているのかどうか、私には戸惑いがあります。

 A案は、九二年に脳死臨調がおおむね合意が得られているとした答申と、各種世論調査で六割程度が容認していることをよりどころにしています。ただ、法制定後十二年がたち、脳死移植が八十一例の実施というのは余りにも少な過ぎます。法律の問題だけではなく、この事実は、社会的に受容されていないことの証拠ではないでしょうか。

 すなわち、脳死は人の死という考え方は、まだ、おおむねと言えるほど浸透していません。人の死という厳粛な事象を法律で定義すること自体も問題があるとの指摘もあり、今後の医学の進歩を踏まえた国民的議論の推移を見定める必要があると考えます。そして、脳死は人の死という欧米の考え方を安易にグローバルスタンダードとみなすのではなく、日本固有の文化的特質を踏まえた日本なりのアプローチを模索すべきではないでしょうか。

 A案は、この重要な概念をめぐり、委員会答弁で揺れました。

 A案は、その六条二項においては、現行法を改正し、脳死は一律に人の死としています。しかしながら、提出者は答弁で、法的脳死判定を拒否できると答弁し、最終的には、六条二項の削除について、修正するのはやぶさかではないとまで答弁されています。これでは医療現場が混乱します。

 A案に対する懸念の二点目は、本人意思が確認できない中で臓器提供が許されるのかという点です。

 本人の意思がなくても臓器提供が可能となれば、ドナーカードが不要となる可能性すらあります。ドナーカードを普及させ、国民的議論を深めながら啓発するという、本来あるべき臓器提供の原則から離れていく可能性もあります。

 そんな中で、これまでの議論を踏まえD案は提出されました。

 D案は、A案が提唱する十五歳未満にも臓器移植の道を開くこと、B案やC案が掲げる、脳死は臓器移植をする際に人の死とするという概念、本人意思に基づく臓器提供の原則を堅持し、第二次脳死臨調を含むさらなる国民的な議論を喚起していこうというものであります。多くの国民のコンセンサスと納得があってこそ脳死下での臓器提供という究極の医療行為は成り立つとD案は提唱しています。

 D案は、脳死を一律に人の死とするという国民的合意がいまだ十分に得られない中で、広く国民への啓発を行い、みずからの意思で脳死下での臓器提供をしてもよいと考える方と、その臓器をもって健康を取り戻せる方へとの、命のかけ橋を着実に進める法案であります。

 日本人の国民性、宗教観、死生観を考えるとき、一足飛びの臓器移植の推進は、かえって臓器移植への不透明感、不信感を高めることになるのではないかと懸念し、D案で定める三年後の見直し時期までのさらなる議論の推進を期待するものであります。

 論点、疑義の少ない部分から第一歩を踏み出し、改正すべきではないでしょうか。ただし、この改正で終わりではなく、早急に再び脳死臨調を設置し、広く国民世論を喚起しながら、何ができ、何ができないかを議論すべきであります。

 以上、私は、熟慮の末、万感の思いで、D案こそが妥当であると政治判断いたしました。議員各位の賢明なる御判断のもと、D案が成案となりますようお訴えし、D案に賛成する私の討論とさせていただきます。(拍手)


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Last-modified: 2009-07-06 (月) 12:08:40 (3631d)