野田佳彦先生によるD案への賛成討論 †いろいろ悩んだあげく、登壇することとなりました野田佳彦です。 私は、いわゆるA案、B案、C案、その問題点を指摘しつつ、D案に賛成の立場で討論いたします。(拍手) 第百六十八国会以降、A案、B案、C案の各案が提出されました。それぞれ一長一短あり、どれを選択するか、大変悩ましい限りでした。 それぞれ傾聴に値する御提案ですが、B案は、十二歳未満の脳死下での臓器提供を認めないことにより、実質的に、小児で臓器提供を求める多くの患者の救いにはなりません。 また、C案は、よって立つ哲学は明確ですが、臓器提供の機会の促進には結びつきません。 A案の主張は、ある意味で明快。WHO指針に準じる国際基準にすることで、臓器提供数の大幅な増加を目指し、現行十五歳以上の年齢制限も撤廃する内容です。私は、三案の中では、情緒的にはA案を支持する立場でした。しかしながら、A案が前提とする、脳死は人の死は、本当に社会的に受容されているのかどうか、私には戸惑いがあります。 A案は、九二年に脳死臨調がおおむね合意が得られているとした答申と、各種世論調査で六割程度が容認していることをよりどころにしています。ただ、法制定後十二年がたち、脳死移植が八十一例の実施というのは余りにも少な過ぎます。法律の問題だけではなく、この事実は、社会的に受容されていないことの証拠ではないでしょうか。 すなわち、脳死は人の死という考え方は、まだ、おおむねと言えるほど浸透していません。人の死という厳粛な事象を法律で定義すること自体も問題があるとの指摘もあり、今後の医学の進歩を踏まえた国民的議論の推移を見定める必要があると考えます。そして、脳死は人の死という欧米の考え方を安易にグローバルスタンダードとみなすのではなく、日本固有の文化的特質を踏まえた日本なりのアプローチを模索すべきではないでしょうか。 A案は、この重要な概念をめぐり、委員会答弁で揺れました。 A案は、その六条二項においては、現行法を改正し、脳死は一律に人の死としています。しかしながら、提出者は答弁で、法的脳死判定を拒否できると答弁し、最終的には、六条二項の削除について、修正するのはやぶさかではないとまで答弁されています。これでは医療現場が混乱します。 A案に対する懸念の二点目は、本人意思が確認できない中で臓器提供が許されるのかという点です。 本人の意思がなくても臓器提供が可能となれば、ドナーカードが不要となる可能性すらあります。ドナーカードを普及させ、国民的議論を深めながら啓発するという、本来あるべき臓器提供の原則から離れていく可能性もあります。 そんな中で、これまでの議論を踏まえD案は提出されました。 D案は、A案が提唱する十五歳未満にも臓器移植の道を開くこと、B案やC案が掲げる、脳死は臓器移植をする際に人の死とするという概念、本人意思に基づく臓器提供の原則を堅持し、第二次脳死臨調を含むさらなる国民的な議論を喚起していこうというものであります。多くの国民のコンセンサスと納得があってこそ脳死下での臓器提供という究極の医療行為は成り立つとD案は提唱しています。 D案は、脳死を一律に人の死とするという国民的合意がいまだ十分に得られない中で、広く国民への啓発を行い、みずからの意思で脳死下での臓器提供をしてもよいと考える方と、その臓器をもって健康を取り戻せる方へとの、命のかけ橋を着実に進める法案であります。 日本人の国民性、宗教観、死生観を考えるとき、一足飛びの臓器移植の推進は、かえって臓器移植への不透明感、不信感を高めることになるのではないかと懸念し、D案で定める三年後の見直し時期までのさらなる議論の推進を期待するものであります。 論点、疑義の少ない部分から第一歩を踏み出し、改正すべきではないでしょうか。ただし、この改正で終わりではなく、早急に再び脳死臨調を設置し、広く国民世論を喚起しながら、何ができ、何ができないかを議論すべきであります。 以上、私は、熟慮の末、万感の思いで、D案こそが妥当であると政治判断いたしました。議員各位の賢明なる御判断のもと、D案が成案となりますようお訴えし、D案に賛成する私の討論とさせていただきます。(拍手) |